69年目の広島・長崎原爆忌は、集団的自衛権と恒久平和のせめぎ合いよりも安倍総理のあいさつコピペ問題に注目が集まることになり、政治の方向性ばかりでなく政治の形式主義によって被爆者の方々の心を踏みにじることになってしまいました。本当に残念です。
このあいさつのことで心にふるわせるできごとがありましたので、この機会にあいさつというムダを考えてみたいと思います。
安倍総理のあいさつは、昨年のものと字句が少し違うだけでまるで同じだと批判を浴びていますが、これと同じように主催者・来賓として首長があいさつすると、まったく心がこもっていない文章を読み上げる場面に出くわしたことがある人がほとんどだと思います。場合によっては、首長の代理で副市長や部長、果てには課長が代読することがありますが、ここまでくると単なるプログラム消化のための時間つぶしになってしまいますし、聞く側にもありがたみも何もないのが実情です。
これは当日の時間のムダばかりでなく、首長が読むにしろ代読にしろ原稿を書くというムダな仕事を担当課に追わせることになりますし、それを最小限の手間で済ませようとしたのが今回のコピペあいさつ問題にとして露呈してしまったわけです。
弘前市の場合は、最近の葛西市長はあいさつ文を用意してあっても自分の言葉を織り交ぜて語ることが多く、その分時間が長くなってしまっているきらいがありますので、これなら最初からあいさつ文なしの方が好感を持てると思いますし、逆に前市長は東京大田市場の活気あふれる場で原稿を読み上げたことで評判を下げたことがありました。
この自分の言葉というのも難しいところがあって、元青森県副知事だった蛯名さんは途中で必ず自分の言葉をはさんでいて、暗に自分の方が知事より上と示そうとしているように見えて代読の役割を果たしていませんでしたので、代読はなければないほどよいと思ったこともあります。
ところで、昨夜地元で6歳上の先輩の通夜があって参列したのですが、弔辞に地元選出の清野一栄議員が立ちました。
一栄さんからすれば8歳下の後輩になるのですが、一緒に十数年村の除雪隊として同じコース同じ機械で作業した仲だそうで、亡くなる数日前に最後の見舞いとなった際の会話を心をこめて語るために原稿を持たずに臨んだことで、本当の意味で追悼する思いが伝わってきました。安倍総理の棒読みとは雲泥の差でありました。
私も、一般質問でも何かのあいさつの際にも原稿を書いて臨んだことがないだけに、一栄さんの態度に共感を覚えました。
このような善き例を作ることができる政治家もあるわけですし、先ほど述べたようにあいさつ文作成は担当課にムダな仕事をさせるだけなのですから、弘前市から全国に先がけてあいさつ文読み上げと代理あいさつというムダをやめる動きをはじめてはどうかと思っています。
あいさつ文だけでなく、こういうムダな事務作業を減らして創造的な仕事に時間を振り向けるのも、市政改革には大事なことだと思います。
皆さんが気になるムダな仕事はありませんか?
0 件のコメント:
コメントを投稿