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2015年4月13日月曜日

歴史を語れる職員は市にとって必要です

市議選告示まで1週間を切りましたが、今夜は中央公民館相馬館のやすらぎ館セミナーで、いよいよ桜まつり後に本格化する弘前城石垣修理をテーマに今井二三夫さんと3月まで公園緑地課の担当として石垣のプロと化していた高校陸上部の同期・石川竜明が講師として来村するのですから、馳せ参じないわけにはいきません。
開会前に控え室に顔を出すと、先に今井さんが津軽統一から大正時代の石垣修理までお話しになるというので、昨秋の出前講座に続いて同期にプレッシャーをかけるのも嫌がらせでもありますし、前半終了のところで中座しました。

今井さんのお話は相変わらず面白く興味を引くことばかりで、
  • 近年の研究によって、藩祖・為信公は久慈城主・治義の妾腹の子・久慈十郎として生まれ、種里城の大浦為則を頼って逃れて後を継ぐ形になったのが1973年以降の定説である
  • 津軽では為信公は石川城責めからはじまって戦を続けて津軽を統一したと信じられているが、南部側では戦はしないで裏切って乗っ取ったと正反対の説が信じられている
  • 最初の居城・大浦城は現在の津軽中学校であるが、付近の直売所・四季彩館からは堀跡や元の長勝寺の墓石などが見える
  • 発掘整備が続いている堀越城の大手門は、従来考えられていた岩木山側ではなく平賀側にあったことがわかってきた
  • 焼失した天守閣を再建する際に、幕府には櫓の新築と偽り、検視役の役人には行きと帰りで天守様の側を見せないようにした
  • 明治時代に石垣修理した堀江佐吉率いる堀江組は、当時700人の社員がいる東北随一のゼネコンだった
などなど、もっと聴きたくなるような話ばかりでした。
実は、今井さんは学生時代に地震でズレが生じた天守閣や五重塔を調査したことがあり、その時点でも石垣のふくらみは見つかっていたのだそうで、その時の学びや経験が在職中にも現在までも生きているのですから、まさに弘前市の歴史の生き字引のような存在です。
その後輩にあたる宮川慎一郎さんも、3月で定年のところを再任用で残っていただいていますし、このような学者以上の存在が連なっているのは、弘前市の歴史教育ひいては観光にまで大きなプラスになっていると思うのですが、その後を継いでいけるような職員はいるのか気がかりです。

ちなみに、石垣のプロとして昨年度は20回前後の講演の機会があったという石川ですが、さあ本番というところで異動となってしまい、せっかくの経験が水泡に帰した感じですし、こんな人事をしていては歴史を語れる職員は育つはずもないと残念に思います。
歴史ある文化観光都市として弘前市が光っていくためにも、歴史力のある職員を育てていくのは大事なことだと思いますので、ゼネラリストではなくスペシャリストを育てる職員のキャリアパスも考えるべきテーマです。

2015年3月17日火曜日

歴史とまちづくりをつなぐ

14日は坊主の卒業式でしたので基調講座のみで中座する形でしたが、主催する縄文の会の一員として最低限の責任を果たすべく、文化センターで開催された縄文遺跡活用フォーラムに参加しました。
今回は、県内の縄文遺跡と大森勝山遺跡について学ぶ基調講座と県内主要遺跡からの報告、そして午後からは遺跡の活用をワークショップ形式で自由に考えるという流れでしたので、最後まで参加できなかったのが本当に残念でしたが、この形は歴史を学ぶこととそれを生かしてまちづくりを考えるという一石二鳥の取り組みだけに、もっと広がっていくべきだと思います。

これまでの形であれば、歴史を学ぶ講座であれば年配の方々が多く、まちづくりとなるとJCや大学生といった若い顔ぶれと分かれているのが、今回は双方が参加する場となったことで、若い世代が縄文遺跡の価値を理解するとともに、年配の方々がワークショップというなじみのないスタイルでの意見の出し合いを経験することになり、ともに刺激のある時間だったことでしょう。
これまでも、相馬の長慶天皇伝説や三和地区の砂沢遺跡、はたまた船沢地区出身の前田光世といった地区と結びついた歴史テーマについてふれてきましたが、石川城や和徳城といった南部氏支配時代の歴史を持つ地区、大浦城や堀越城といった津軽氏による津軽統一の拠点、さらには各地に点在する神社仏閣などを学んだ上で活用を考える取り組みを、もっと自由な形で進めていくことが広がれば、保存一辺倒でも現在の課題のみに縛られるのでもない形でのまちづくりができるのではないかと思います。
実は14日の午後にはヒロロで都市計画課が主管する「まち育てミーティング」も行われたのですが、昨年度の実施地区であった経験からすると、地区で行われたワークショップには歴史を掘り返す視点も持っているだけに、フォーラムとミーティングが別々に開催されるのではなく、主管課や団体が別であっても同じ方向性を持つものをリンクさせたり一緒に考える場をつくっていく連携や工夫が必要だと思います。

これは縦割り行政の中では難しいことのように思われますが、取り組まれていないだけに形ができた場合の起爆力は大きいでしょうから、歴史とまちづくりばかりでなく都市計画や景観でも組み合わせて一緒に考えていくことを提言していきたいと思います。

2015年2月2日月曜日

長谷川成一館長と語らう

白神山地財団主催の「白神の恵みと環境教育フォーラム」に参加しました。
財団がメインで伝えたかったのはESD:Education for Sustainable Development=持続可能な開発のための教育を新年度から展開することでしたが、市立博物館・長谷川成一館長の基調講演「江戸時代の人は、天気不正の原因をいかに考えたか?」が終わったところで席を立つ人が少なからずいたのを見ると、どちらを目的に参加していたのかわかる気がします。
講演の内容は、江戸時代の弘前藩で天気不正=異常気象をどのようにとらえていたのか、それと岩木山信仰がどのようにつながるのかということでしたが、関心の高い参加者が多かったせいで質問が次々と上がり、それに対して先生がていねいに学者としての本分を守りながら回答されていたのが印象に残りました。

私も財団の事務を所管しているエコリパの会員ですので、終わってからの交流会にも加わったのですが、ちょうど先生と対面の席でしたので、この機会とばかりに質問をぶつけてみました。
先生は秋田県本荘(現在の由利本荘市)生まれで弘大で学んで以来弘前市に在住されているのだそうで、弘大を退官して昨年4月から博物館の館長に就任されています。
就任当初は職員が引っ込み思案でギャラリートークをしたいという申し入れを断ることまであって驚いたそうで、まずは自分が積極的にやってみせようということで自らギャラリートークを行ったところ、入口のロビーからあふれるほどの聴衆が集まり、安全面を考慮して100名限定とすることにしたものの、3日もあれば埋まってしまい電話がつながらないという苦情をもらう形になって、うれしい悩みを抱えているとのことでした。
動くことで人が集まるのを目の当たりにしてからは職員も前向きに企画を考えるようになり、非常にいい形で運営できているということで、これは外部の人材がもたらしたプラスの効果が出た好例だと思います。
歴史のことでいえば、初代為信公と2代目信枚公の間に長子である信建がいて、関ヶ原の戦いの際には西軍で大坂城を守る立場であるほどの存在だったので本当の2代目はこちらで信枚公は3代目ではないかと質問したところ、藩主とは幕府が定めるものなので津軽家12代というのは変わらない、ただし惣領と認められているので津軽家としては後を継いだということもできると、文献史学者の立場からご教示いただきましたが、その信建がイエズス会の史料に名を残しているのが発見されたそうで、4月のギャラリートークのテーマにされるそうです。

長谷川館長とお話ししてみると、外部人材の登用の効果というのがわかりますが、他の方々だと外で講演したというのを聞いたこともなく、中での仕事ぶりはさておいて、それが外に伝わっていかないのはもったいないことだと思いました。
ESDには、ひろさき魅力プロデュース室の盛和春室長も参画しているのですが、今回は交流会参加の予定が都合がつかなくなったのだそうで、スタバ問題の真相を聞けずに残念というか、見当違いの批判をするなと先輩からのお叱りを受けずにホッとしたというところでしたが、この件でも室長が市民に向き合って語ってくだされば疑念を抱かれずにすることもあると思っています。

最近、葛西市政批判を繰り返していますが、いいところは認めるの表れと受けとめてくださるとうれしいです。

2015年1月23日金曜日

長慶天皇伝説を知っていますか

最近、立て続けに森茂暁さんの『闇の歴史 後南朝』『南朝全史』を読了しました。
そこで知りたかったのは相馬に数々の伝説と地名を残している南朝3代目となる長慶天皇のことでしたが、『後南朝』では時代が違うので仕方ないとしても『南朝全史』でもサラリと流されてしまい、吉野から逃れて全国を潜幸されたことにはまったくふれられていませんで、南朝に踏みこんだ歴史書でもこの扱いかと憤慨しているところです。

長慶天皇は、建武の新政を成し遂げた後醍醐天皇の孫にあたりますが、父である後村上天皇、弟であり南北朝合一を果たした後亀山天皇のはざまに埋もれて、明治時代まで在位に論争があり、1926年(大正15年)に至ってようやく98代天皇として認められた方です。
長慶天皇が歴史から消されそうになったのは、南朝の存立に固執して合一には反対の立場だったからのようで、今でこそ正統と認められている南朝ですが、当時でいえば政権を担っていた足利幕府と敵対する立場でしたので、和睦に応じなかった敗者中の敗者の事績が伝わらないのは歴史の必然ですし、合一のじゃまとなったことで譲位を迫られ吉野から追われるように津軽浪岡にあった北畠氏を頼り相馬に落ちつくことになったのだと推察されます。
全国各地に潜幸伝説があり崩御されたという謂われのある地も20ヶ所を超えるのだそうですが、相馬の場合は御所を置いたということで御所(後に畏れ多いと五所に改める)という地名があり、吉野紙で知られる和紙の漉き方を天皇自ら伝えられたというので紙漉沢、同行した水木という武将が館を築いたので水木在家(「在家」というのは関西に見られる地名)といった地名伝承があり、紙漉沢には御陵墓参考地とされてきた墓所があり、天皇を祀る上皇宮もあります。
これだけの痕跡が残っているからには、天皇自らおこしになったと考えたいですし、少なくとも皇子クラスの人物が拠点としたのは間違いのないことだと思いますが、観光コンベンション協会刊行の『ひろさき読解本』では船沢地区の宮舘・折笠などの地名も長慶天皇伝説にかかわるものとされており、中世津軽の歴史を考える上でも無視できないものだと思っています。

以前、津軽家と石田三成の関係についてふれましたが、これもまた中央の歴史からすれば取るに足らないエピソードの一つにしか過ぎないだけに、津軽にとって大事な歴史の節目というのであれば、地元でこそ語り継いだりしっかりと論考していく必要があると思います。
また、津軽には李氏朝鮮に蝦夷千島国王と名乗って使いを出したのが確認される中世十三湊の豪族・安東氏という中央の歴史とはリンクしない動きもあったのですから、万世一系の日本とは違う歴史の流れがあったのを知ることで、相対的多角的に歴史を考えるヒントを津軽弘前の子どもたちには気づいてほしいと思います。
子どもたちにしても、南北朝や天下統一を歴史用語として暗記するのより、その時津軽では何があったのかを知る方が興味がわくと思いますし、それが身近なところに地名や伝説として残っているのを調べるといったことを総合学習に取り入れるといった工夫をしてほしいものです。

ついつい、歴史となると熱く語ってしまいますが、それだけ歴史を知り歴史を学ぶことを大事に思っているのだとご理解いただければ幸いです。

2014年10月13日月曜日

津軽の歴史を日本史とつなぐ

幼少のみぎりには毎回欠かさずだった大河ドラマを、昨年の「八重の桜」から再び見るようになった勢いで今年の「軍師官兵衛」も見ていますが、ちょうど小田原征伐から朝鮮出兵そして関ヶ原の戦いと豊臣秀吉の天下統一から徳川幕府へと進んでいく時代に舞台が移ってきて、ドラマそのもののクライマックスでもあり日本の歴史にとっても一大転換点であるだけに目が離せないところです。
そればかりでなく、この時期は津軽氏がはじめて中央の歴史に登場してくるということからして津軽にとっても重要なところなのですが、このことを知っている人は津軽にどれだけいるのでしょうか?
今回は、津軽の歴史と教育のことを考えてみたいと思います。

お門違いなところから話をはじめますが、今回の「官兵衛」でも例によって石田三成は秀吉をダークサイドに引きこんでいく悪役として描かれていますが、大河ドラマでこの時代に接した一番の最初が城山三郎原作「黄金の日々」でして、そこでは主人公・呂宋助左衛門の友人であり堺奉行として交易にも千利休にも理解のある「治部殿(じぶどの)」として活躍していた第一印象が強いだけに、どうも違和感を感じてしまいます。
それは、津軽の歴史にとっては石田三成は欠くことのできない存在だからというひいき目があるからでして、公式に認められている関係でいえば、藩祖・為信公の長子・信建の烏帽子親を務めた事実があるばかりでなく、元服後に大坂城に小姓として務めた信建は関ヶ原の戦いでは三成方の西軍に加わったばかりでなく、敗北して落ちのびることになった三成の子を津軽にかくまい、次子は杉山源吾と名乗り源吾の子は津軽藩の家老を務め、次女・辰姫は二代藩主・信枚公の側室・大館御前として後継ぎ・信義公を生んだとされています。
ちなみに、信枚公の正室は徳川家康の養女・満天姫ですので、関ヶ原では勝った家康も津軽の血筋争いでは三成に敗れたという衝撃の事実があるばかりでなく、秀吉の小田原征伐に南部氏よりもいち早く参陣したおかげで所領安堵してもらったご恩を忘れず、源吾が伝えたという秀吉座像を幕府滅亡まで弘前城北の郭に建神として秘匿して祀っていたほど、津軽家にとっては秀吉そして三成との関係は深かったのです。この座像が今は為信公の墓所である革秀寺に安置されているといえば、どれだけ大切なものかご理解いただけると思います。

これらの事実は、一般的には理解が乏しいにしても津軽の歴史としては定説のように扱われており、それが『津軽太平記』といった小説や漫画歴史書『卍の城物語』などで広まってもいますが、杉山源吾の末裔である佐賀郁朗氏の労作である『石田三成と津軽の末裔』によれば、この事実は現在でも中央の史学界では俗説扱いであり、津軽側の記録や伝承ではなく他地にある資料で実証するのに非常に苦労したことがわかりますが、同じく末裔である白取亨氏の著作ともども定説を覆すところには至っていないようです。
逆に、新書という手に入りやすい形で出版されている滝沢弘康氏の『豊臣家臣団の内幕』では、惣無事令が出された後の下克上であり相手方の南部氏には秀吉の盟友・前田利家がついていただけに、為信公の小田原参陣には三成の取次があったからこそ成功したことをわざわざ特筆するほど全国史的にも稀有のことと紹介していますが、津軽では為信公の行動力や近衛家とのご縁という視点では語られても、この場面で三成との関係についてふれているものはないように思います。
こうした津軽の認識と中央とのギャップがそのままでは、津軽の歴史を子どもたちに伝えようという声を上げるのもはばかられますので、ここはこの分野の専門課であり民間登用で博物館館長となられた長谷川成一先生に事実の精査と史学界への働きかけをしていただきたいと思います。

蛇足ですが、わが相馬地区には鎌倉幕府の残党が最後の戦をした持寄城跡、南北朝合一にあがなって逃れてきた長慶天皇伝説があるように、中央の歴史の最後が津軽につながるものがあり、この三成とのご縁もそれに連なるものと思えますが、そこには地理的に最果ての地であるばかりでなく、どこか権力に従わない気質があるからこそ呼びよせてくるものがあるように、私は自分の性格に我田引水しながら思ってしまいます。
そこまで極端でなくとも、津軽には津軽の歴史があることを、学校教育においても生涯学習の場においても伝えていくのは必要で大事なことだと思います。

2014年8月26日火曜日

砂沢文化でいこう!

昨夜は中央公民館相馬館主催のやすらぎ館セミナーで、相馬ふるさと歴史研究会の中澤孝明さんと澤田健雄さんによる「土器から見た相馬の歴史」の講演を聴きました。
中澤さんは、相馬の地名と伝説をテーマに郷土史家として高名だった父・秀義さんの編さんした「相馬村誌」にもとづいたお話でしたが、メインのテーマを語られた澤田さんは地元の遺跡発掘にかかわる立場として土器なども持参して縄文土器の用途による製法の違いや縄文晩期には縄目の紋様のない土器が村から出土して五所式土器と名づけられて弘大に保管されていることなど、興味深い内容で勉強になりました。

それから一夜明けてみると、朝日新聞に利根川以北は弥生文化が広がらなかったという記事が出ていました。
これは、現在国立歴史民俗博物館で行われている「弥生ってなに?!」展を企画した藤尾慎一郎副館長の説によるもので、一部には水田耕作が伝わっても青銅器文化が伝わらず土偶祭祀が続いていたこの地域を、当時の代表的な遺跡の一つで現在では溜池となっている砂沢遺跡から「砂沢文化」と命名する提言がされているのだそうです。
この遺跡は、縄文晩期から「砂沢文化」期の遺跡で、水没して確認できないものの北限の水田遺跡として知られる田舎館村の垂柳遺跡以上の規模を誇るものであるそうですが、場所としては大森勝山遺跡から平野部に下りてきた位置にあり、生活や信仰の面でも連続性が感じられる重要な遺跡であると言えます。
西日本では縄文から弥生そして土師器・須恵器へと土器分化は進んでいくのですが、北日本では弥生の水田文化はほどなく消えて擦文式土器の文化へと「退行」したかのように説明されてきましたが、この縄文~「砂沢」~擦文という流れの方がスッキリしていますし、それだけ青銅器祭祀から大和朝廷を生み出した文化系列とは別世界であったことの証明にもなります。

歴史の流れを下っても、中世の博多と並び称された十三湊に栄えた安東氏は、蝦夷千島国王と名乗って当時の李氏朝鮮に使いを出したことが正史である「李朝実録」に記録が残っており、幕府朝廷からの官位は受けていても別の国であるという気位を持っていたことがわかるだけに、正史とは違う流れにある津軽そして北海道を含めた北日本の歴史を地元の子どもたちにどう教えていくべきかは重く深遠なテーマでもあるのですが、今回の「砂沢文化」は国として歴史を研究する立場からの説であるだけに、大手を振って教えることができるはずですから、ぜひ積極的に取り組むべきだと思います。
これまでは、縄文中期といえば三内丸山、晩期といえば亀ヶ岡と、青森県ではあっても他地域の遺跡が冠せられていたのが、今度は堂々と弘前市の遺跡が紀元前後の北日本文化を象徴することになるですから、これを推さないわけはありません。

まずは、弘前から砂沢文化でいきましょう!