昨日2/26は9年前に相馬村が合併してなくなった日ですが、3年前から当時の職員・三役・議員が集って「相馬村会」を開催するようになりました。
ここで弘前市・岩木町そして相馬村による合併を振り返り、10年目の新弘前市に必要なことを考えたいと思います。
弘前市を中核とした合併は、当初津軽広域連合を組織していた14市町村による30万都市=中核市をめざして動き出しましたが、法定協議会ができる時点で板柳町と浪岡町が外れて12市町村となり、これは在任特例を適用すれば201名という全国最大の議会となる冗長さや構成する自治体の財政問題が明らかになり合併効果が見こめないことなどから難航し、2005年7月に法定協は解散となったのでした。
ここで、岩木町・西目屋村・相馬村の中津軽郡3町村は当時の金沢隆市長から合併を呼びかけられたのですが、昭和の大合併以降3つで仲よくやってきた自然気候も産業構造も似通っている同士で先行合併して将来の広域合併に備えるべきだと考える者とこの機会に弘前市との合併に向ききりべきだという立場とに分かれましたが、西目屋と相馬は3町村合併を議決し岩木町の結論を待ったのですが、きちんと合併するか否かを核にした上で合併の相手先を選ぶ手順で臨めばよかったものを、あろうことか単刀直入に3町村合併の可否を採決したことで8名の3町村派を期せずして連合する形になった7名の弘前市合併派と2名の合併反対派の9名が上回る形になり、中津軽郡合併は幻に終わったのでした。
当時は、総務省から単独では財政的に立ちゆかなくなると信じこまされていたこともあり、世界自然遺産・白神山地と津軽ダムという財源を持っていた西目屋村は住民投票を経て単独の道を選んだものの、岩木町・相馬村はやむなく弘前市との合併を呑むことになりました。この経緯と苦渋の選択を、旧市民の皆さんにも覚えておいていただきたいと思います。
私は、2003年の村議選に際し、まだ話題にも上らず機運もなかった合併問題を前面に出して、相馬村が取り組んできたむらづくりを津軽に波及させるべきだと信じて「相馬のために広域合併」を打ち出したのですが、合併論議の中で広域合併への矛盾を感じ、視察した福島県矢祭町・長野県小布施町などの合併しない側にシンパシーを感じ、そして次代を担う20代の若者たちが一番合併反対だったのを代弁するために、最後はただ一人合併反対に回ることになりました。
合併に反対した者が在任特例で残るわけにはいかないと9年前の最後の日をもって議員辞職したのですが、初代市長となった前市長が合併時の約束を踏みにじる相馬ふれあいセンター建設を反古にしようとする姿勢に出たことを許すわけにいかずに2007年の市議選に挑むことになっただけに、新市建設計画での合併戦略プロジェクトをはじめとする均衡ある発展がきちんと進んでいるかどうかには誰よりも注視してきた自負があります。
市議である以上、市政全般とすべてのエリアに目を向けるのは当然のことですが、地元に利益誘導するということではなく、合併で誕生した経緯をふまえながら単独であれば実現可能なことや維持していくべきことを考えていくのが、合併を意義あるものにすることになると信じています。
それだけに、合併10年目の今年、市議として合併を振り返りながら前に進めていく立場に戻らなければと強く思っています。
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