2015年1月23日金曜日

長慶天皇伝説を知っていますか

最近、立て続けに森茂暁さんの『闇の歴史 後南朝』『南朝全史』を読了しました。
そこで知りたかったのは相馬に数々の伝説と地名を残している南朝3代目となる長慶天皇のことでしたが、『後南朝』では時代が違うので仕方ないとしても『南朝全史』でもサラリと流されてしまい、吉野から逃れて全国を潜幸されたことにはまったくふれられていませんで、南朝に踏みこんだ歴史書でもこの扱いかと憤慨しているところです。

長慶天皇は、建武の新政を成し遂げた後醍醐天皇の孫にあたりますが、父である後村上天皇、弟であり南北朝合一を果たした後亀山天皇のはざまに埋もれて、明治時代まで在位に論争があり、1926年(大正15年)に至ってようやく98代天皇として認められた方です。
長慶天皇が歴史から消されそうになったのは、南朝の存立に固執して合一には反対の立場だったからのようで、今でこそ正統と認められている南朝ですが、当時でいえば政権を担っていた足利幕府と敵対する立場でしたので、和睦に応じなかった敗者中の敗者の事績が伝わらないのは歴史の必然ですし、合一のじゃまとなったことで譲位を迫られ吉野から追われるように津軽浪岡にあった北畠氏を頼り相馬に落ちつくことになったのだと推察されます。
全国各地に潜幸伝説があり崩御されたという謂われのある地も20ヶ所を超えるのだそうですが、相馬の場合は御所を置いたということで御所(後に畏れ多いと五所に改める)という地名があり、吉野紙で知られる和紙の漉き方を天皇自ら伝えられたというので紙漉沢、同行した水木という武将が館を築いたので水木在家(「在家」というのは関西に見られる地名)といった地名伝承があり、紙漉沢には御陵墓参考地とされてきた墓所があり、天皇を祀る上皇宮もあります。
これだけの痕跡が残っているからには、天皇自らおこしになったと考えたいですし、少なくとも皇子クラスの人物が拠点としたのは間違いのないことだと思いますが、観光コンベンション協会刊行の『ひろさき読解本』では船沢地区の宮舘・折笠などの地名も長慶天皇伝説にかかわるものとされており、中世津軽の歴史を考える上でも無視できないものだと思っています。

以前、津軽家と石田三成の関係についてふれましたが、これもまた中央の歴史からすれば取るに足らないエピソードの一つにしか過ぎないだけに、津軽にとって大事な歴史の節目というのであれば、地元でこそ語り継いだりしっかりと論考していく必要があると思います。
また、津軽には李氏朝鮮に蝦夷千島国王と名乗って使いを出したのが確認される中世十三湊の豪族・安東氏という中央の歴史とはリンクしない動きもあったのですから、万世一系の日本とは違う歴史の流れがあったのを知ることで、相対的多角的に歴史を考えるヒントを津軽弘前の子どもたちには気づいてほしいと思います。
子どもたちにしても、南北朝や天下統一を歴史用語として暗記するのより、その時津軽では何があったのかを知る方が興味がわくと思いますし、それが身近なところに地名や伝説として残っているのを調べるといったことを総合学習に取り入れるといった工夫をしてほしいものです。

ついつい、歴史となると熱く語ってしまいますが、それだけ歴史を知り歴史を学ぶことを大事に思っているのだとご理解いただければ幸いです。