2014年6月30日月曜日

成年後見からゼロ葬を考える

今回は、死にかかわる問題で寺社の多い弘前市では避けておくべきテーマかも知れませんが、だからこそあえて議論の俎上に載せておきたいと思います。

土曜日、市民後見人フォローアップ研修に参加しました。これでも、最初の市民後見人養成講座を修了しているのですが、これまで2回はフォローアップに参加できずにいたところ、先日の報道で2件の市民後見人による成年後見がはじまったというので、近況を知る意味もあっての参加でした。
研修では、東京の学会での市民後見人からの報告の報告、弘前市での市民後見人第1号からの実践報告、その後グループに分かれての事例検討と進みましたが、全体を通じて死後の処理が課題として浮き彫りになりました。
本来、後見人は被後見人が亡くなったところで業務が集結するのですが、さすがにハイ、ソレマデヨと終わるわけにもいかず、社会福祉士として何軒も受任してきた方々もさまざまな経験をしてきたそうですし、施設を通じて見届けてきた私にも同じような思いがあります。
とりわけ、市民後見人が受任する市長申し立てのケースは、家族が後見できないばかりか不在や連絡不能というのがほとんどですので、死後の対応を後見人がやらざるを得ない可能性が非常に大きくなるのですが、それだけではなく財産がほとんどない場合も多いので、どこまでお弔いに費用をかけられるのかという不安がつきまとうことになります。

そこで、私は付け焼き刃の知識で、最近では家族葬や直葬、さらにはゼロ葬まではじまっているから弘前市でも検討すべきだと発言したのですが、言いっ放しでいけないと思い、週末に提唱者である島田裕巳氏の『0葬~あっさり死ぬ』を読了しました。
これには、前著である『葬式は、要らない』からの葬儀にまつわる状況の変化もまとめられていますので参考になりますが、要約すれば「火葬は戦後の習慣であり、日本は葬儀に世界一カネがかかる。人生80年90年の大往生の時代には、死者にとらわれずに済む0葬でもよいというやり方があってもいいのではないか」ということです。(書名は「0葬」なのですが、まぎらわしいのでゼロ葬と表記させていただきます。)
遺骨を大事にする習慣は火葬に伴うわけですし、驚くべきは西日本では火葬の際に頭蓋骨やのど仏といった大事な部位を除くと残りの2/3はいわばゴミとして処理されているというのです。東日本のはずれである弘前市でも、最後には斎場の職員が細かいものを掃き集めていますが、それを大胆に行うのが西日本のやり方なのでしょう。
それまでの土葬から火葬となって生まれた風習があるように、現代にあった葬儀の仕方があってもよいのではということで、今でも本当は焼却すれば全部灰になるところを火力を調整して骨の形を残しているのだという都市伝説があるように、将来的には希望によって全部焼却を選択できるようにすれば、葬儀や墓さらにはお寺に払う費用が圧倒的に少なくできるというのです。
ただし、つけ加えておくと島田氏も全員そうすべきだということでなく、ゼロ葬も選択できる時代になったということですし、私も宗教否定をしようと思って、この文を記しているのではないことをご理解ください。

成年後見の話に戻りますと、ほとんど財産もなくお弔いをしてくれる親族もないという被後見人であれば、このゼロ葬が選択できれば、どれだけ後見人も気が楽だろうと思うのです。
ある自治体では、こういう身寄りのない方々を合同で祀る施設を持っているところもあるそうで、弘前市でも増え続けている生活保護の方が亡くなられたら、葬祭扶助という支出をするのではなくゼロ葬で終えて合同で弔うことも検討すべき時代が来るかも知れません。
先日ふれたような葬祭ホールは増えてはいますが、関係者に聞いても家族葬で済ませたり死亡広告を載せないといった葬儀の簡略化が進んでいるのも事実ですので、全国的に見て所得が低く、なおかつ火葬してから通夜葬式を行っている全国でも珍しい地方である特性を生かしながら、禅林街をはじめとして多くの寺社が建ち並ぶ弘前市だからこそ、新時代の葬儀ゼロ葬を打ち出すべきだと思うのです。
そのことが、葬式仏教ではない弘前のお寺という価値を高めることにつながる可能性だってあるのです。

これには賛否両論が当然あるでしょうし、葬儀の持つ意義を改めて考えるチャンスでもあると思います。
これをテーマに、一度住職を務めている方とオープンに語り合いたいと思っています。

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